第29話「想いの果て(後編)」

 

 真っ白な石畳の床にうつぶせになって倒れながら、レインはうつろな目で地面を見つめた。斬りつけられた背中から鈍い痛みが断続的に走り、彼女の意識が途切れるのを許さない。

 いっそ、気絶できたらいいのに。そうしたら、もう、何も考えなくていいのに。

 このまま、何も考えずに眠りたい。ずっと、ただ、安らかに……。

 レインはぴくりともみじろきせずに、ただ最期の瞬間を待った。愛しいイブリースの幻影が、自分の身体を切り裂く瞬間を。

 だが、その時、うつろな彼女の視界に、ぽとりと何かが落ちた。

 ぽとり、ぽとりと、それは次第に間隔を短くし、絶え間なく地面を濡らしていく。

 一瞬、雨かと思った。だが、自分の視界がゆらりと滲むのを感じて、彼女は悟った。

 涙だ。私の目から溢れ、頬を伝い、地面を濡らしている。

 どうして、涙が出るのだろう。もう、全部諦めたのに。もう、どうでもいいのに。

 ……いや、そうなのだろうか?

 本当に、これで終わりでいいのだろうか?

 本当は、私は……。

「レイン!!」

 力強い、確かな意志の光を持った声が、彼女の耳朶を打つ。その声を聞いた瞬間、不思議な事に、彼女の心をあやふやに包んでいた霧が、全て吹き飛んだ。

 心の中に抱いていた本当の気持ちが、驚くほど鮮明に伝わってくる。

「こんなところで……」

 両腕に力をこめて、上半身を浮かせる。背中の痛みがますますひどくなったが、そんなものに構っていられない。その痛みすらも超越する強い衝動が、彼女の身体を支配していた。

「こんなところで……死んでたまるかぁぁぁ!!」

 絶叫し、身体を強引に立ち上がらせようとする。しかし、イブリースの召喚したレッドエレメンタルは、既に彼女のすぐ背後にまで迫って来ていた。

 レッドエレメンタルが手にした剣を振り上げ、レインに襲いかかる。レインはなんとか逃れようと一歩足を踏み出したが、体勢が十分でなく、前のめりになって片膝をついた。格好の標的となったレインに、レッドエレメンタルの剣が振り下ろされる。

「ま・に・あ・え〜!!」

 だが、それより一瞬早く、文字通り一陣の風と化したカリオンがレインにタックルするかのような勢いで飛びこみ、横からその身体を抱きしめた。レッドエレメンタルの剣を間一髪でかわすと、そのまま空中で反回転し、レインを抱きしめたまま背中から地面に落下する。

「カリ……オン……?」

 思わず目を瞑っていたレインは、恐る恐る目を開けると、カリオンを見上げた。

「大丈夫か? レイン」

「う、うん……平気……」

 カリオンに真剣な表情で尋ねられ、レインは反射的にそう答えた。

 その答えに、カリオンもほっと安堵のため息をつく。

 二人はしばし見つめ合い、互いに迷いが薄れたことを悟った。迷いがなくなったわけではない。しかし、今やるべきことは、たった一つだけなのだ。それがわかっていれば、今はそれで十分な気がした。

 そうして、お互いに冷静になって、そして、もう一つ重要な事に気がついた。

 カリオンは相変わらず背中に手を回してレインの身体を抱きしめたままだ。しかも、飛び込んでレインを助けただけあって、かなりきつく抱きしめている。ようするに、お互い身体が密着していた。おまけに、顔が近い。ほとんど互いの息がかかるような距離である。

 二人は同時にその事実に気がつき、顔を真っ赤にして、慌てて離れた。

「い、いや、今のは緊急時の不可抗力であって……その、やましい気持ちは何も……」

「う、うん。わかってる……」

 互いに正反対の方向を向いて、顔を赤くしたまま言う。そして、振り向いて顔を見合わせると、ふっと小さく笑みを浮かべた。

「生きよう、レイン」

 カリオンは立ち上がって、レインに手を差し伸べた。

「こんなところでくたばるわけにはいかない。俺達にはまだ、今やるべきことも、そして、これから先やれることもある。そうだろ?」

「うん」

 その手を取って、レインも立ち上がる。イブリースとノアの幻影が、ゆっくりとこちらに迫って来ていた。

「どうするの? カリオン」

「幻影とわかってても、俺はやっぱりあいつを斬れなかった。だから、接近せず一瞬であいつらを消滅させる。俺のサンダーストームをフルパワーで開放すれば、多分可能なはずだ」

「サンダーストーム?」

「俺のリーサルウェポンだ。マナの力とオーラの力を融合させるから、魔法を放つ事も出来る。オーラの力で増幅させたサンダーストームを、あいつらにぶつけてやるのさ」

 カリオンが両手を広げ、リーサルウェポンを召喚する準備に入る。しかし、その途中でわずかに顔をしかめた。

「カリオン……?」

 そのわずかな表情の変化を、レインは見逃さなかった。背後からカリオンに近づく。そして、すぐにその原因を突き止めた。脇腹の辺りから血が滲んでいる。服の上からでも、かなりの出血量であることが容易にうかがえた。

「ひどいケガじゃない! 無茶よ! こんな状態でリーサルウェポンを使うなんて!」

「大丈夫だ。このくらいのケガならできる」

「でも……!」

 レインはなおも食い下がろうとしたが、カリオンは鋭い視線でそれを制した。レインは心配そうな表情のまま、やむなく一歩下がる。

 カリオンはレインから視線を外し、再びこちらに迫る二人の敵を見据えた。かつてこのサンダーストームを始めて召喚した時、自分の後ろにいてくれたのはノアだった。彼女がいたからこそ、このリーサルウェポンは完成した。彼女が完成させてくれたこの武器で、今度は彼女の幻影を滅ぼすことになろうとは。

 皮肉なことだ、とカリオンは思った。

「もう、後ろは振り返らねぇ」

 その思考を振り払うように、自らを奮い立たせるように、カリオンは言った。

「どんなに振り返っても、人は後ろには歩けねぇんだからな」

 片方の手にオーラを、もう片方の手にマナの力を集める。十分に力を集め、安定させたところで、ぱん、と両手を合わせ、二つの力の結合を始めた。

 元来、異質と呼ばれてきた二つの力は、互いに反発し、せめぎあう。だが、この二つの力は完全に異質なものではない。二つの力には、融合できる結合点が確かに存在する。カリオンは既にその結合点を探し当てる感覚を、完全に自分のものにしていた。

 バチバチとスパークの火花を散らし、二つの力が、一つの強力な武器へと変化していく。だが、それは崩壊寸前の、ギリギリの境界線であった。

 脇腹からすさまじい激痛が走り、額に脂汗が浮かぶ。視界がかすみ、体力が流れ出る血と共に奪われていくようだった。痛みのおかげで、集中力も低下している。

 普通の状態なら苦もなく召喚できるようになっていたが、脇腹の傷は想像以上に深かった。結合しかけた力が、再び反発を始めている。具現化し、形を得ようとしていた武器が、徐々に輪郭を失いつつあった。

 手が震える。呼吸が荒くなる。必死に手に力を込めるが、震えは止まらない。体力だけの問題ではないかもしれない、と思った。ヤケになって飲んだ酒が、少なからず影響しているかもしれない。自業自得だった。

 脇腹だけでなく、全身を襲う激痛に、身体が悲鳴をあげる。

 諦めるな。そう念じても、身体の力は徐々に失われていく。

 ここまで、なのか?

 カリオンが限界を感じ、絶望に襲われそうになった、その時だった。

 ふわりと、優しい感触が、カリオンの両手を包みこんだ。しなやかで、それでいて力強い不思議な感触が、カリオンの手に力を与える。

「カリオン……」

 背中越しに、小さな重さを感じた。

「レイン……?」

「私も、戦えるよ?」

 レインの一回り小さな手が、カリオンの両手をいたわるように包み込む。その背中に、とん、と額を預けて、レインは言った。

「一人じゃ、ないよ」

 その時、カリオンの身体から湧き起こった力を、どう表現したらいいのか。それは彼自身にもわからなかった。歓喜とも、勇気とも、情熱ともいえない、とても心地よい何かが、彼の全身を、全細胞を駆け巡り、カリオンに未知の力を与える。

「―――――――――!!!」

 全身を声にして、声にならない絶叫。解き放たれた力が真っ白な閃光を放ち、コロシアムはその未知なる光に包まれた。

 

第29話 終